白糸の滝(山形県戸沢村)

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白糸の滝:概要

白糸の滝と「義経記」: 白糸の滝義経一行は清川の五所の王子(御諸皇子神社)で宿泊し、ここから舟で会津の津(本合海)を目指します。船頭は「ばいや権守」、当日は雪解け水の為、最上川が増水し舟で上流に上がるのが大変だったようです。「義経記」では「これやこのはからうさの少将庄の皿島と言ふところに流されて」とあり、「からうさの少将」とは南北朝時代に南朝方の武将として活躍した千種顕経の事で、本来、義経の時代から見ると200年後の人物だった事から、「義経記」が室町時代に書かれた書物で、事実と異なる事が書かれている一端を示しています。皿島(最上川中流)という地名は現在ありませんが、当時は存在し元禄14年(1701)に皿島集落と真柄集落が合併し真柄村が開村し、室町時代の古碑も存在するそうです。そして誰が歌ったの分かりませんが「月影のみ寄するはたなかい河の水上、稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、其處とも知らぬ琵琶の聲、霞の隙に紛れる」と詠っています。最上川は月影が写るとはかないように見えるが、余りにも早いので稲を運ぶ船を漕ぐより難儀をし、川の音は琵琶の音も霞に紛れるように打ち消してしまう。と嘆いているようです。そうこうしている内に滝が見えて来たので、北の方(義経の室)が船頭に滝の名前を尋ねると「白絲の瀧(白糸の滝)」と答えたので、北の方は次ぎの和歌を詠ったようです。

 ・ 最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白絲の瀧(白糸の滝)
 ・ 最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白絲の瀧(白糸の滝)

白糸の滝は最上川の急流によって形成された最上峡にある48滝の中でも最大で滝の高さ約120m、平成2年(1990)に日本100名滝に選定されています。さらに進むと「鎧の明神」、「冑の明神」が見えて来たので船上から伏せて拝んでいます。「鎧の明神」、「冑の明神」の由来は日本武尊が東夷東征で当地を訪れた際、家臣の1人が最上川に流された為、日本武尊が兜と鎧を投げ捨て裸になって最上川に入り家臣を助けた故事から兜が投げ捨てられた場所に「鎧の明神」、冑が投げ捨てられた場所に「冑の明神」をそれぞれ祀ったと伝えられています。地元の伝承によると、義経が参拝した際、兜と冑をそれぞれ寄進したと伝えられています。その後「たかやりの瀬」と呼ばれる難所で苦労していると、山の上から猿の声が聞こえたので、北の方は次ぎの和歌を詠ったようです。

 ・ 引きまはすかちはゝ弓にあらねどもたが矢で猿を射て見つるかな

「たかやり」という地名は現在はありませんが現在の戸沢村大字古口字高屋が比定されています。さらに進むと「みるたから」と「たけ比べの杉」などを船上から見学し、「矢向の大明神」が見えて来たので船上から伏せて拝み、会津の津(本合海)に到着しています。「みるたから」は不詳ですが「見る光」と訳して「見る光清寺」とする説があるようです。ただし、光清寺は最上町にありその後、義経一行が境内前を通過するものの、最上川の船上で見えるものではありません。「たけ比べの杉」も不詳ですが、戸沢村土湯には「幻想の森」と呼ばれる一帯には山之内杉、神代杉、仙人杉とも呼ばれる樹齢千年以上の老杉が点在し、中には多幹型(タコ足状に幹が分かれた形状)も見られ、あたかも背比べをしているように見える事から、それらを指していると思われます。

地元の伝承
○ 弁慶が最上川の舟で上っている最中し腰巻を岩で乾かすと、その縞模様がその岩に染み付き「腹巻岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。
○ 義経が馬の口から泡を吹き出し苦しんでいるのを見かねて、轡(くつわ)を外して洗った場所が「くつわはめ」と呼ばれるようになり、それが転じて「沓喰(くつはみ)」という地名が付けられたと伝えられています。
○ 仙人堂は義経の家臣常陸坊海尊が義経の死後、修行の末に仙人となり、義経縁の当地に御堂を設けた事を創建の由来としています。現在でも海尊を祭神として祭り舟運安全と五穀豊穣の神として信仰されています。

奥州平泉への道・山形県での逃避経路

鼠ヶ関
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三瀬気比神社
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出羽三山
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清川
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白糸の滝
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会津の津
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亀割山
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瀬見温泉
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尿前の関
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鳴子温泉
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