会津の津(山形県新庄市本合海)

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会津の津:概要

会津の津と「義経記」: 会津の津(本合海)「義経記」によると、源義経は「矢向の大明神」を船上から拝みながら「会津の津」に到着、義経は寄り道した御蔭で2日程遅れたが、何とか会津の津に着いた。私は「宮城野原(宮城県仙台市)」、「榴岡(宮城県仙台市)」、「千賀の塩亀(宮城県塩竈市)」などを見たいが、全てを廻るとあと3日は必要になるだろう。亀割山を越えて「へむらの里」、「姉歯の松(宮城県栗原市)」まで行けば平泉はすぐだから、どれを見学したら良いか?と家臣に問うと、家臣は、全て見たいとは思いますが、まずは1日も早く平泉に辿り着く事が必要なので、見学はせずに直ぐに亀割山を越えましょうと答えました。しぶしぶ納得した義経は亀割山に向かいました。とあります。

「会津の津」は現在の新庄市本合海に比定されている場所で、近代交通が整備させるまでは清川〜本合海は陸路では無く最上川を舟で行き来するのが一般的で本合海は渡船の発着湊、最上川舟運の拠点の1つとして発展しました。庄内藩では鶴ヶ岡城から舟形街道を利用し舟形宿で羽州街道に合流し江戸に向かうのが参勤交代の一般的な経路となり、新庄藩では藩庁が起かれた新庄城の城下町に物資を運ぶ為、最上川舟運が大きな役割を持ち本合海(会津の津)はその玄関口となり重要視されました。さらに、江戸時代中期以降は出羽三山の信仰が全国の一般庶民にも広がり、舟形街道を利用して多くの参拝者が利用しました。ただし、一般者は清水湊から乗船するのが決まりだった事から、本合海湊からの乗船するには許可が必要となり、本合海湊が一般者に開放されるのは明治維新後です。又、松尾芭蕉や正岡子規、齋藤茂吉など文人墨客が利用した事でも知られ、旧湊付近は小公園として整備され、松尾芭蕉の銅像や金子兜太・皆子句碑、正岡子規歌碑(積雲寺境内「草枕 夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず 秋立ちにけり」)、澁谷 道句碑(二宮八幡宮境内「霧こむる うねり雄々しき 本合海」)、義経上陸の地・黛まどか句碑「草の香に 一舟もやふ 最上川」などが建立されています。又、「おくのほそ道の風景地 本合海」として国指定名勝に指定されています。

矢向神社・概要: 矢向神社矢向神社が何時頃勧請されたのかは不明ですが、平安時代の朝廷で製作された歴史書である「三代実録」に貞観16年(874)に「矢向神」が従五位下という神階を賜っている事から最上地域では最古の歴史を持ち格式も高かった事が窺えます。最上川によって大きく削られた白い岩肌は川の表面との輝度の差で極めて神秘的な空間を作り出し、古代人にとって素朴な自然崇拝の対象になっていたのかも知れません。江戸時代に入り最上川舟運が盛んになると舟運関係者から篤く信仰されるようになり、仙人堂、鎧明神、兜明神、竜明神と共に最上の五明神に数えられました。社殿は岩肌の中腹付近にある為、通常は直接社殿の前で参拝出来ないようになっていて対岸にあたる本合海には鳥居を設けて遥拝場になっていていたと思われます。又、崖の頂上部は中世の山城である八向楯の跡地で新庄市指定史跡に指定、矢向巻は最上川の文化的資産50選に選定されています。祭神:日本武尊

「義経記」では会津の津(本合海)から亀割山に向かったと表現されていますが、隣町である舟形町では義経一行は最上川をさらに上ってから平泉に向かったとの伝承が残されています。 右 [ 舟形町 ]

奥州平泉への道・山形県での逃避経路

鼠ヶ関
右
三瀬気比神社
右
出羽三山
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清川
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白糸の滝
右
会津の津
右
亀割山
右
瀬見温泉
右
尿前の関
右
鳴子温泉
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