亀割山と「義経記」: 亀割山は「義経記」の中で北の方(義経の室)の出産について多く書かれています。山頂を越えたあたりで、急に産気付きましたが、医師や産婆がいた訳でも無く、苦難続きの長旅を続けてきて体が弱っていた事もあり体調も悪化の一途を辿りました。近くには民家も無く、集落も遠く離れていた為、休めそうな大木がある所まで移動して敷物を敷いて北の方を休めさせ、北の方の要望もあり、ひとまず家臣達を遠ざけて義経と十郎権頭(兼房)だけが看病にあたりましたが、痛さの余り何度も気を失いました。北の方が気を失う毎に義経は深い悲しみを覚え、身重である事を知りながら、苦難な旅をさせた事を後悔し、北の方が死んだら自らも命を絶とうと決意し、その姿を見た家臣達は皆、戦場でもこのような義経は見た事が無いと言いました。暫くして、北の方が目を覚まし、水が欲しいと嘆願した為、弁慶が水瓶を持って、雨が降る夜道をどこを探せば良いかも分からずとにかく谷に下りて行きました。日照りが続いたようで、耳を澄ませても川の音が聞こえず、困っていましたが、ようやく小川を見つける事が出来早速、水を汲み上げ戻ろうとしたところ、今度は戻る場所を見失い、合図である法螺貝も、もし、民家が近くあれば誤解を招く事から躊躇しましたが、一刻を争う事態でもあり、仕方なく吹くと山頂の方からも法螺貝が聞こえようやく戻る事が出来ました。
弁慶が北の方の傍によると、雰囲気が何時もと異なり、 義経などは涙を浮べていたので、話を聞くと「せっかく水を汲んでもらったのに、その甲斐なく、既に北の方は死んでしまった。」と答えました。十郎権頭をはじめ皆泣き伏していると、弁慶は無理にでも、この旅に参加させるのを止めるべきだったと嘆き、せめて、汲んできた水を北の方に与えようと、口に含ませると僅かに体を動かしたので、腰を抱きかかえ強く念仏を唱えると、奇跡的に意識を取り戻し無事出産しました。弁慶は臍の緒を切り、湯浴させ「亀割山」の亀に掛けて、鶴のように長寿になるとの願いから亀鶴御前と名付けました。義経は自分の置かれた状況を嘆き、自分が安泰なら、この子の将来は何の不自由もなく暮らせるのに、いっそ亀割山の番人でもさせた方が良い、とつぶやきました。それを聞いた北の方は、余り情けない事を言わないでください。やっと授かった子供には明るい未来があるはずです。その可能性を捨て亀割山の番人させるとはどういうこと?この子の未来をあなたに任す事は出来きないので隠してしまいましょう。と言って悲しました。それを聞いた弁慶は、殿(義経)は自分が戦で死んだら、他に頼る人がいないので心配しただけで本心ではありません。若君はとても理髪そうな顔立ちをしているで心配はありません。もし、何かあれば微力ながら弁慶が力になりましょう。と言って慰めました。
多少言い回しは変更しましたが、上記のような内容が「義経記」で記載されています。
亀割山の新庄側の麓に鎮座する判官神社(新庄市)は、 義経一行が亀割山を越えるにあたり、ここで休んだ場所とされ、亀割山で北の方が無事に元気な赤ん坊を産んだ伝承から安産に御利益があるとして信仰の対象となりました。社殿内部には武蔵坊弁慶が握り潰したと伝わる石が安置され、安産祈願した際奉納したと思われる腹帯が納められています。又、地名の「休場」は上記の故事を由来とし、その際、弁慶がうとうと眠り込んだ事から「うと坂」と呼ばれるようになったと伝えられています。瀬見温泉側の麓には亀割子安観音堂(最上町)が境内を構え、同じく北の方の御産の故事から子授け・安産に御利益があるとされ信仰の対象となっています。境内には陰陽石や馬頭観音、庚申塔が建立され小国西国三十三観音霊場12番札所に選定されています。北の方が出産した場所は亀割子安観音堂の奥之院として石碑が建立され近くには亀若丸子枕石、弁慶が手植えした弁慶杉があるそうです。又、山中の岩場は亀割峠を登山道を大岩がふさいでいた事から弁慶が薙刀で一刀両断し道を切り開いた事から「弁慶の切石山」と呼ばれています。
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