最上町(歴史)概要: 最上町は周囲を大小の山々に囲まれたカルデラ地形だった為、古くは小国郷と呼ばれ独立性が強く独特の風土を持っていたようです。伝承では室町時代から戦国時代には細川氏が支配し、細川直元の代には現在の山形県北部を領する有力国人領主として大きな影響力がありました。
最上家が台頭すると、同じく国人領主だった天童氏と縁を結ぶなど最上家と対立しましたが天正8年(1580)万騎ノ原にて当時の領主細川直元と弟である帯刀直重が最上軍3千5百と戦となり善戦虚しく敗退し細川家は没落します。
代わって小国郷は最上家家臣蔵増安房守が与えられ、嫡子光基は地名から小国光基と改名し、細川氏の居城であった岩部の館を大改修し小国城と呼ばれるようになりました。元和8年(1622)、最上家が御家騒動より改易になると小国氏も連座し、小国城は伊達家によって破棄されました。
その後、最上領は分割され現在の新庄市、最上町一帯は戸沢氏が8万3千石で入部し新庄藩を立藩します。
旧小国城の麓には藩の代官所が新たに設けられ引き続き当地の政治、行政の中心となりました。経済の発展と共に、新庄藩領と仙台藩領を結ぶ出羽街道が重要視され街道沿いには多くの集落が形成、さらに小国駒という名馬を産出し、新庄藩の奨励もあって日本有数の馬産地となりました。
又、人々の往来も多くなり元禄2年(1689)には奥の細道製作の為、松尾芭蕉、河合曾良一行が出羽街道を利用しており有路家(現在の封人の家)に3日間逗留しています。
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