新庄市(歴史)概要: 新庄市は中世に築かれた沼田城の城下町として形成されました。しかし、新庄市を含む当時の最上郡一帯は小領主が乱立する状態で、大身だった小野寺氏、武藤氏、最上氏からの侵攻を受け軍事的拠点として要所だった真室川や本合海の方が重要視されていました。
天正9年(1581)に最上氏の最上郡侵攻が始まると、それまで勢力圏だった横手城(横手市)を本拠とする小野寺氏の勢力は削がれ有力家臣だった鮭延氏が降伏するなど守勢にまわる事になります。最上氏は関ヶ原の戦いでも勝ち残りさらに領土も広大しますが、元和8年にお家騒動を起こし改易されます。
最上領は分断され、新庄市を含む最上郡の大部分を戸沢氏が6万石を領する事になります。戸沢氏は当初、鮭延城へ入りますが手狭で領土的に北側に片寄っていたこともあり、沼田城を改修し新たに新庄城として新庄藩を立藩します。
戸沢氏は城郭を拡張しただけでなく現在の新庄市の基礎となる町割りを行い新たな城下町づくりを積極的に行っています。現在より西側にあった羽州街道を城下に引き込むことで本陣や旅籠、伝馬などを新たに開設し、商人や職人を呼び寄せ市を開くなど新庄が最上郡の中心都市として発展していくことになります。
又、戸沢氏は角館(仙北市角館町)出身という事もあり天満宮や円満寺など古くから庇護していた寺院や郊外には新たに鳥越八幡神社や菩提寺でもある瑞雲院などを建立しています。
戊辰戦争では一時白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加しますが逸早く脱退し政府側につき、一時は秋田藩との挟撃作戦に成功するものの庄内藩や仙台藩の反撃にあいます。
新庄市一帯は戦場となり新庄城は落城、戸沢氏は秋田藩へと逃れていきます。結果的には勝利を収めたものの領内には大きな被害を受け、新庄城は廃城、明治4年に廃藩置県が行なわれ新庄県が立県し同9年に山形県に組み込まれていきます。
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