尾花沢代官陣屋概要: 前身である尾花沢楯の築城年は不詳ですが尾花沢藤左衛門が居館として築かれたとされます。当時の縄張りも不詳ですが、若干の微地形を利用した平城で名の無い小川を外堀と見立て周囲を土塁等で囲っていたようです。天正年間(1573〜1592年)、延沢城の城主、延沢氏の侵攻により落城し、その後廃城になったと思われます。元和8年(1622)、山形藩主最上家が御家騒動により改易させられると尾花沢一帯は新庄藩6万石の領土になりましたが、新たに山形藩主となった鳥居氏の半ば強引な領地変換の為、当時日本有数の産出量を誇った延沢銀山と最上川舟運の要である大石田河岸は山形藩の領地となりました。寛永13年(1636)、2代鳥居忠恒が死去すると嗣子がなく、遺言も法令違反の為受け入れられず事実上鳥居家は改易となり尾花沢領5万石は天領となり万治元年(1658)に尾花沢代官陣屋を尾花沢町裏に築きました。この尾花沢代官陣屋は日本最北端の幕府代官所だけでなくその重要性から出羽国の天領を統治する中心と考えられました。延享元年(1744)に現在地である尾花沢楯跡地に移り幕末まで続き明治維新を迎えるとその役目が終わります。現在は尾花沢小学校となっている為、敷地の形状はわかるもののほとんど遺構が残っていません。
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