延沢銀山(銀鉱洞)概要: 延沢銀山は康正2年(1456)に加賀金沢(現在の石川県金沢市)出身の儀賀市朗左ェ門が発見したと言われています。伝承によると儀賀市郎は出羽三山の参拝の為、軽井沢宿で宿を取った際、夢枕に衣冠束帯の姿の老人が立ち銀が採れる山を告げたそうです。儀賀市郎は早速その山に行って見ると見た事の無い黒い石が辺り一面に転がっていた為、その内の1つを金沢に持ち帰り山師に見せると銀の含んだ石と判り、多くの人夫を従い当地に戻り銀山を掘り当てたと伝えられています。戦国時代には延沢城の城主野辺沢氏(延沢氏)が支配し、慶長3年(1598)は豊臣秀吉に銀を上納しています。
元和8年(1622)に最上家が御家騒動により改易になると延沢氏も連座し、新たに新庄城に入り新庄藩を立藩した戸沢氏の所領となりました。しかし、戸沢氏の上役に当たる山形藩主鳥井氏が延沢銀山の利益を獲得する為に半ば強引に領地変換を迫り山形藩に組み込まれました。鳥井氏は銀山奉公を置くなど積極的に鉱山の開発が進み、寛永年間(1624〜1645)に最盛期を向え、日本で指折りの銀山に成長していきます。寛永5年(1628)に鳥井家が事実上改易になると天領となり寛永13年(1636)には幕府直営の御公儀山となり、寛永19年(1642)には幕府天領として代官陣屋も置かれ寺院も48カ寺を数え人口も2万人を越えたそうです。延沢銀山に多くの人材が流れ込む事で周辺諸藩は逆に人手不足を招き寛永17年(1640)には米沢藩2代藩主上杉定勝が延沢銀山への出稼禁止令を発布しています。
その後、一時減産し万治元年(1658)には代官所も尾花沢に移されましたが寛文7年(1667)、千秋作兵エ・木戸佐左ェ門・越後次郎助・白崎多兵ェ・梁田示斉を中心に開発が進み再び産出が増量しています。しかし、江戸時代の中期になると次第産出量も減少し元禄2年(1689)に坑道が崩落し事実上閉山し元禄15年(1703)には村請山となり鉱夫達も延沢銀山から離れました。
現在は坑道の一部を開放し内部見学が出来るように整備され、指定基準(6:交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡)を満たしている事から「延沢銀山遺跡」(東山地区:間歩・疎水、山の神神社、延沢城跡の3箇所)として昭和60年(1985)に国指定史跡となっています(銀山跡地としては世界遺産に登録された島根県大田市の石見銀山に次いでの国史跡)。延沢銀山は日本三大銀山(半田銀山:福島県国見町/桑折町・石見銀山:島根県大田市大森町・生野銀山:兵庫県朝来市生野町・院内銀山:秋田市湯沢市院内町・延沢銀山:山形県尾花沢市)に数えられています。
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