南陽市: 長谷観音(宝積坊)

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概要・歴史・観光・見所
長谷観音(宝積坊)概要: 長谷観音堂の創建は貞観9年(867)、当地に巡錫で訪れた慈覚大師円仁は霊地と悟り、自ら彫刻した聖観世音菩薩を安置したのが始まりとされます(円仁は荒廃していた観音堂を再興したとも)。歴代領主から信仰の対象となり天正17年(1589)には当時の宮沢城の城主大津土佐守本次が再興し、その際再建した観音堂が飛騨の匠による壮麗な御堂だった事から「やくみどう」の別称が付けられました。伝承によると棟梁で飛騨の匠である工左衛門が1人娘梅と弟子を引き連れ御堂の再建を携わった際、御堂の正面の彫刻を担当するのに弟子の竹蔵と松蔵が争い竹蔵がその名誉を受けました。工左衛門もその技術に惚れ込み自分の後継者として娘との婚儀を進めましたが梅には既に将来を誓った人がいた事から口論となり工左衛門は娘を切りつけると大蛇が住む谷に遺体を投げ捨てました。その夜、大蛇に姿を変えた梅が竹蔵の夢枕に立ち、父親の世話と私の今の姿を御堂の彫刻として彫り込んで欲しいと懇願して姿を消しました。実は梅が将来を誓った人物が松蔵で、事件を知った松蔵は師弟の仁義が立たない事とあの世で梅と結ばれる為に池に入水し自害しました。しかし、池から松蔵の死体が上がらず、幽霊になった梅と心中したとの噂が広がり、幽霊に尻が無い事からその池は尻無池(尻無沢)と呼ばれるようになり、畔には2人の供養の為遺品と2本の松を植え地蔵尊を建立すると不思議な事に2本の松が交わり1本の松となり「相生の松」「妹背の松」と呼ばれ恋愛成就に御利益があるとして信仰の対象になっています。

文政年間(1818〜1830年)に火災により多くの堂宇が焼失すると、当地は米沢城から見ると北東に位置する事から米沢城の鬼門鎮護の寺院として文政10年(1827)に11代藩主上杉斉定の許可を得て再建され、上杉家秘蔵の観音像が安置されました(慶長5年:1600年の関が原の戦いの際、西軍に与した上杉軍が東軍の最上領に侵攻し長谷堂城で激しい攻防戦が繰り広げられました。その際、城内に境内を構えていた長谷観音堂から本尊で行基菩薩が彫刻したと伝わる丈六尺:約180cmの観音像を持ち去り宮内の長谷観音堂に安置したと伝えられています)。置賜三十三観音霊場第30番札所(札所本尊:聖観世音菩薩・御詠歌:いつみても かわらぬものは はせでらの こけもひかりて なほもますなり)。宗派:真言宗。

長谷観音:写真

長谷観音(宝積坊)
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