鮎貝城(白鷹町)概要: 鮎貝城は応永3年(1396)、当地に配された藤原成宗が築いたのが始まりとされ、成宗は地名に因み鮎貝氏を名乗り、以後6代に渡り城主を歴任しています。鮎川氏は藤原氏の系統で藤原鎌足の11代後裔とされる藤原安親が当地に下向し土着すると国人領主として地位を固めました。天文の乱(1542〜1548年)では伊達晴宗と対立しますが、敗北後は伊達家の有力家臣として迎え入れられています。天正15年(1587)、当時の城主鮎貝宗信は最上家と姻戚関係を結ぶ事で再び伊達家と対立、その際、宗信の父親である宗重と弟である宗定は伊達家に出奔し宗信の謀反を知らせた事で、宗信討伐後は宗定が鮎貝家を継いでいます。
天正19年(1591)主家で米沢城の城主の伊達政宗が岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封になると鮎貝氏も随行し、鮎貝城は新たに会津黒川城(福島県会津若松市)に入封した蒲生氏郷の支配下に入りました。慶長3年(1598)に蒲生秀行が宇都宮城(栃木県宇都宮市)に減封になると、上杉景勝が入封し鮎貝城には重臣である中条氏が1万3千3百石(その内与力分が3千3百石)で城代として入城しています。
慶長5年(1600)の関が原の戦いで上杉家は西軍に与した為大きく石高を減らされた事を受け、中条氏も鮎貝城の城代を引き続き担ったものの石高は3千3百30石となっています。その後、鮎貝城の城代は築地氏、下条氏、春日氏が歴任し寛文5年(1665)に本庄氏が城代となると、明治維新まで本庄家が城代を世襲しています。又、慶長20年(1615)に一国一城令が発令されると形式上は鮎貝城は廃城となり、以後は米沢藩の御仮屋として当地の行政、防衛の中心施設として重要視されました。現在は本丸、二の丸部分が鮎貝八幡宮の境内となり、土塁や水堀の一部が残されています。鮎貝城二の丸跡は昭和59年(1984)に白鷹町指定史跡に指定されています。
|